「何故ここまでネギまサイト界に考察記事が溢れているのか?」という問いはネギまサイト界の活性化を図る上では考えることは欠かせない問題だと思います。
この記事は、その現状を分析する記事です。
「考察記事」を発表する人間には必ず読んで欲しいと思っています。
「考察記事」の書き手自身が「何を書こうとしているのか」を把握することは、本人にとっても有意義な事であるはずです。
さて、ネギま界での「考察記事」とは何なのか考えてみたい。
結論から言うと、現在の「考察記事」と呼ばれているものは、本質的な意味では「考察」では無い。
むしろ赤松作品の背景に特有の「研究」という呼び方で表現した方が望ましい。赤松作品には特殊な背景があって、コマ数を数えたり、身長を確認してみたり、理系的なアプローチからの「研究」が実に多いです。
それは赤松先生本人のサイト、AI Love Networkでもよく現れていています。
参考1:http://www.ailove.net/noteky/noteky.cgi?c=noteopen&f=1&ff=p
最近の「考察記事」と呼ばれるものは、ALN掲示板での「赤松作品の研究」での議題とよく似通っていると思いませんか?故に、本質的には、最近の「考察記事」とは「研究」と呼ぶのが相応しいと思われます。
それは以前起こった、いわゆる「ハルヒブーム」と対比してみると良く分かるかと思います。ハルヒのアニメ化にあたり、各サイトでは盛んに「考察」が生み出されました。
そこら辺の記事と比較してみると面白いかと思います。
参考2:http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060703/p2
参考1と参考2を比較してみれば分かるかと思いますが、同じ「考察」(あるいは「〜論」)と名乗っているにも関わらず、方向性の大きな違いに気づくはずです。
具体的に言えば、ハルヒでは作品論・あるいは、読み方論といった方向性であるのに対して、ネギまでは作品内の展開の推測といった事や、アーティファクトなどからの推察が主です。
---では「考察」とは何なのか。
と、尋ねられると、話の方向性が全く変わってしまいそうですが(笑)ハルヒブームで生み出された記事の方が、やはり、本質的には「考察」と呼ぶに相応しいんじゃないかなと思っています。
私は推察はあくまで推察であって、考察ではないと思っています。
誤解されると困りますが、ネギまに「考察」が無いか?と問われれば「あります。」と私は答えるでしょう。例えば、赤松健論も勿論そうですし、くるぶしあんよさんのネギま考察なんかは典型でしょう。
また、「研究」が悪いと言っているのでは決して無く、「考察」との違いに自覚的で有るべきだ!と言うのが私の意見です。「考察」と名乗るのは一向に構いませんが、自分が何を書いているのか分からない、と言うのは、若干悲しく無いでしょうか。
具体的にネギま界に「考察記事」が増えた原因を考えてみます。
前述した通り、ネギまというよりも、むしろ赤松作品には「研究」が溢れる素地があったことが、一つの原因でしょう。他には『「考察記事」はアクセス数を稼ぎやすいという誤解があった。』ということだと考えています。
つまり、一時期のネギまサイト(ブログ)界では、ネギまに関する記事を書いて、それが中小ニュースサイトに取り上げられ、大手ニュースサイトにも取り上げられアクセスが得られるという一連の流れが多く繰り返されていました。
これを見ていた(であろう)新規ネギまサイター達が
「あぁ、ネギまに関する記事を書けばアクセスが得られるんだ」という誤解をしてしまい、結果「考察」(本質的には「研究」なのに)が溢れる事態へと繋がったのだろうと推察できます。
(さて、意図して繰り返してきた「誤解」という言葉ですが、アクセスアップを狙うならば、「考察記事」(研究記事でも構わない)というものはアクセスアップに不向きだからです。これは間違いないことだと思っています。考察記事はクオリティを一貫して安定させるには、ブロガーの高い力量が求められる上に、批判も起こるので、実は不都合。ここでは、「あぁ、そういうものなのか」と流してくださって結構です。)
アクセス至上主義は未だにサイト界では支配的です。
よって、このアクセスを得られるという"幻想"が作用して、「考察記事」が溢れることに繋がっただろう、と考えています。
同様に最近の、ネギま「企画」の増加についても考えてみます。
これはどうにも、新規で生まれたネギまサイターに、企画を立てようとする動きが多く、旧来からのネギまサイターは静観している印象があります。(正式に計測した訳では無いので、念の為。)
これは旧来のネギまサイターが立てた「企画」を模倣していることが考えられます。例えば「企画」の原典の一つに、嘗てネギまサイト界を賑わせた「Ultimate Of ネギま!」という人気投票があるでしょう。
これを見た、ネギまサイターが企画を立て、更に、その新たに立てた企画を見た新規ネギまサイターが新しく企画を立てたものと考えられます。
これより分かるのは、『今後も新しくネギまサイターが増え続けるとすれば、現存するネギまサイターは新規ネギまサイターに影響を与え続ける』ということです。
何故なら、新規ネギまサイターは旧来からのネギまサイターを見て、「ネギまサイターになりたい!」と感じたからでしょう。(そうでなくネギまサイターになりたかった人も勿論仲には居るでしょうが、恐らく少数派)
これは、先ほどの「考察記事」の増加にも関連がある事です。
つまり、現在のネギまサイター達が「考察記事」と名乗るものを乱発すれば、これより出てくるであろうネギまサイター達も「考察記事」を乱発する、ということです。
良くも悪くも、旧来のネギまサイターが、新規ネギまサイターの模範になっているという事です。少なくとも、旧来のネギまサイター達は、再三言いましたが、せめてその事に自覚的であるべきだと思います。
ネギまサイト界を構成する一員なのですし。
・・・ように感じる。
実際は違うんじゃないかなと最近思えてきた。サウンドトラックはゲームや映画中の様々なシーンで用いられる、いわゆる劇中音楽だ。その音楽の使い方は、効果音的でもあったり、感情起伏のブースター的だったり、作品世界に没頭するための入り口的だったり効用は様々。
それにしても、よくサウンドトラックの宣伝で「あのシーンが甦る」という煽りを見たりするけど、正確な表現は違うんじゃないかなぁと思ったりする。
というのも、サウンドトラックの主な効用は、「劇中のシーンの再現」というよりも、「劇中のシーンにおける自身の体験の再現」だと思うからだ。
サントラを聞いていると、悲しいシーンを思い出して泣きそうになったり、楽しいシーンを思い出して吹き出しそうになったりする。
がしかし、よく考えると、シーンによって体験する感情は人それぞれであって、ある人は涙するかもしれないし、またある人は笑い出すかもしれない。劇中音楽といっても、違うシーンでも同じ音楽を使いまわすことが殆どで、一つの音楽でも思い出すシーンは全く別だ。一つの音楽に複数の体験を思い出すという「幅」があるので、それぞれ感じることは違ってくる。じゃあどの感情を選択するかというと当然の如く、深い感情移入した体験を引っ張ってくるのだろうなぁ。
とは言っても、ここまでは所詮言葉遊びの範疇でしかない訳ですが。
サウンドトラックの「効用」と聞かれると、さっきも言ったとおり、
・感情起伏のブースター
・作品世界への没入の援助
・効果音的な演出
以上が、「作中でのサウンドトラックの効用」で、
・実体験に基づく最も感情移入したシーンのリプレイ
が、「作品外でのサウンドトラックの効用」だなと思います。
そういえば、「挿入歌」もサウンドトラックの中に含まれていることがありますが、そちらは、「作中での効用」は「作品世界の象徴」という役割で、「作品外での効用」は「大雑把な作品世界の再体験」といった所でしょうか。
強さのインフレ化が進行すると、物語としての"薄さ"とこれまでの展開との矛盾が生じやすくなります。有名な強さインフレ漫画といえばドラゴンボールですけど、あれは極北ですからね。漫画家としても物語の厚さを作り出すなら、なんとしてもインフレ化だけは避けたいものなのです。
強さのインフレ化を引き起こす要素は以下の二つ。
・力の価値の基準が一つしかないこと
・作画演出での限界
それぞれについて述べてみます。
◆力の価値の基準が一つしかないこと
まぁ価値基準が一つしかないとか言ってもよく分からないので、例えてみると、これはジャンケンで表せます。
ジャンケンのルールでは三すくみの状態が基本ですが、
それをグーとグーでどっちが強いか争う状態を想像してください。
グーとグーで戦ったとしたら、おそらく、より硬く力強いグーが当然勝ちますよね?
でも、もしも仮に勝ったグーが更に強いグーと出会ったら・・・?
当然新しいグーが勝ちますよね。でも、そして更に強いグーが表れたら・・・!?
この繰り返しが続くと強さのインフレ化が進行してしまいます。
どんどん強く、硬いグーを演出し続けなくてはならないからです。
インフレ要素の一つに「作画演出の限界」があるのですが、それと絡んだ問題です。無限に強さの演出が出来るならこの方法はアリなのですがまず不可能ですので、この問題が表れてきます。
この状況を打破するには、、、簡単ですよね?
パーを出せばいいんです。
そして、パーのみだと、今度はパー同士の争いが起こるので、チョキも出す必要があります。こうして複数の強さの基準を作ると、色々なパターンを演出できる上に、読者の味覚のインフレも防げます。毎日カレーばかり食べていたら飽きちゃうでしょう?たまには質素なものが食べたくなるのです。
基本モデルはこの「ジャンケン」なんですが、より複雑にしてもアリですし、なにも「パー」にあたるものを戦闘能力にしなくても良いのです。
より複雑にしたもの(ジャンケンでの手の形をグー、パー、チョキに更に加えた)の代表は富樫義博「ハンター×ハンター」でしょうか。オーラの形態なんかそうです。おかげでハンター×ハンターはまだギリギリ強さのインフレ化を起こさずに済んでいます。
「パー」を戦闘能力にしない、とは、例えば精神面など。
代表的な"根性論"は今となっては陳腐ですが、グーとグー同士が拮抗した場合、第二の力の価値基準となり得ます。インフレ化進行を鈍らせることは可能でしょう。
そういえば、完結してしまいましたが、デスノートなんかもある種のバトル漫画ですね。力の価値基準が「知性」なんです。二部ではそこに三項間対立なども持ち込んでいましたが。最終的には知性のインフレ化が起こっていた気がしますね。読者が付いてこれないっていう(笑)
こうして、バトル漫画を評価する際は「力の価値基準の設定」が上手くできているか?というのはとても重要になってきます。どのようにしてインフレ化を避けようとしているか?を読み取るのも面白いものです。
◆作画演出での限界
さて、直接の原因ではないんですが、作画演出の限界も間接的にインフレ化に作用しています。
グーとグーという、力の基準が一つしかない場合、前述したように、「より硬く、力強いグー」を演出しなくてはなりません。
となると強いほうにド派手な演出が必要になってきます。
いくら「この剣は強い」と説明するよりも剣を振り回して大地が真っ二つに割れていたりした方が強く見えるでしょう?視覚に訴えるからそう感じるのです。
漫画もそれを利用してどんどん強い方へ、派手なエフェクト(演出)を掛けていきます。とするとエフェクトのインフレ化が起こってしまいます。
単純に演出の規模だけ見ても
建物が全壊→周囲一体が全壊→地球が滅亡→宇宙が滅亡
といって、宇宙が滅亡の次の演出が出来なくなります。
とすると手段としては、次は
・設定自体をブチ壊す
あるいは
・口で(文字で)「こいつは(前の)アレよりも危険だ!」と説明する。
どちらも基本的には漫画ではタブーで
前者は一般的に「物語が破綻した」と呼ぶし、
後者は文字で説明するのみですから、物語がとてもうすっぺらになってしまいます。
となると自然に、物語としての評価も低くなるわけですね。
さて、ここまで述べて来ましたけど、
主観としての評価と客観としての評価は違うものなのです。
だって、みんなドラゴンボールが好きじゃないですか?(笑)
強さのインフレ化は物語としては破綻させちゃうんですけど、直線的な力の基準は人間の感情移入を容易にさせるんですよ。だから、ドラゴンボールもセル編や魔人ブウ編は破綻していると分かっていても楽しめちゃうんです。
だから決してこの話にそぐわないからと言って、その物語が面白くない、つまらない、ということでは決してないです。そこらへんは押さえて欲しいなという感じです。
ただ物語を楽しむ方法を一つ新しく提示できていたら幸いです。
外、というのは運営しているブログにまったく感知していない人たち、ニュースサイトからの流入で初めて訪問した人たちを指します。
内、というのは逆に運営しているブログの読者達、毎回読んでくれる人たちの事を指します。(以下、読者と書けば新しい記事が出るたび毎回読んでいる人たちを指します)
要するに、内=読者、外=読んでない人、と解釈していただければ結構です。ちょっと概念的な話ですけども。
記事が外に開いていないと、外の人は何が書いてあるのかさっぱり分からない。内側には開いているからブログの読者は「ああ、そうだね」と納得する。逆に言えば、読者しか納得できない。だが、記事が外に開いていると、内の人たちも理解できるし、勿論、外に居る人たちも理解・納得できる。
ここで、外に開いている記事を「対外記事」内側に開いている記事を「対内記事」と呼ぶことにしよう。
それぞれの特徴について書いてみる。
対外記事:
・初めて記事を読んだ読者でも理解できる記事。
・大衆向け。マジョリティ。
・対内記事よりも書くのが大変
・ニュースサイトが拾いやすい
対内記事:
・何度もブログを訪問してくれる読者向け。
・少数向け。マイノリティ
・初めて読んだ人は理解しがたい記事
・過去の経歴・ブログ方針を理解している人たち向けなので記事の配慮が少なくて済む
・書くのはとても簡単
・ニュースサイトは拾いにくい
こうして見ると、対内記事はいいところがまるで無いようにも感じますが、意外とそうでもなく、ブロガー自体に興味を持たせるという意味では重要です。
以前、このブログではこの記事の伏線として「多くの人間に読まれる為に」という記事を書いておきました。この記事は冒頭に書いてある通り、対内を意識して書きました。
例えば、「空気化」という言葉があります。これは以前書いた「アクセスアップ考察」という記事内で私が作り出した言葉なので、今まで読んできた読者は分かるし、新しく来た読者は理解できません。
配慮が無いようにも見えますけど、こういった良く分からない部分が無いと、ブロガーには興味が湧かないと思うのです。読者を増やすには必ずブロガーへの興味が必要になります。いきなり丸分かりのモノを、理解しやすいモノを見せられても、すぐ満足してしまうので、読者にはなりづらいのです。ましてやWEB界ではサイト単位ではなく、記事単位に価値が移行していますし。
しかし、全てが体内的では読者が着てくれないのも事実です。
ので、ここで「外から入って内に出る記事」を推奨してみます。
つまり、窓口は対外的で、読み始めると体内的、な記事です。
体内的な要素でフック(←この言葉が対内的要素)に掛けるわけです。
ですが、全て対外的な記事で出来ているサイトが一番強いのは事実です。全てが対外的な記事ということは、裏を返すと全てが対内的という事です。
だから対外記事を書きまくっているサイトは強いんですよねー。
ただし、空気化が進んでいると対内記事でも対外記事と同様に読者は満足できるのでそれを利用しない手はない、というのが私の考えです。対内記事は書きやすいですから。
まぁ、私のブログはこんな記事を書けるほど、読者は多くないんだけどね。
みんな読者になってくれよー。(←実に対内的)
ふつつかものですがどうぞよろしく、というどこかで聞いた出だし(ちょ
構成は大きく4つです。
◆恋愛漫画のドラマツゥルギー頂点の持って行き方。まほらばは特殊。
◆まほらばはギャルゲーだ!
◆まほらばは実は幸せな日常からの脱出を描いている。
◆作者、小島あきらの話
月刊誌での連載ということで、単行本は半年に一巻ずつですから、単純計算で既に5年と半年続いていることになります。思えば随分長いんですね。半年に一巻だから単行本派の私は新刊が出ると既に既刊の内容を忘れている(笑)困ったものです。
さて、11巻冒頭でようやく早紀ちゃんがデレを発揮しました。
早紀ちゃんがツンデレ娘だというのは確実です。くり返しになるけど、ここまで本当に長かった…!ツンデレはツンの比率が高く、デレの部分の比率が少ないほど、そのデレ部分は良質である、というのはこの業界の定説なんですが、まさか数年かけて"ツン"を見続けることになるとは思いませんでした。本当は出演は少ないのですが、焦らされただけにデレシーンをみるとなんだか嬉しい。
まほらばといえば、メインヒロインの青葉梢の多重人格が一番「まほらば」らしくしている設定ですが、いよいよ全ヒロインと白鳥との接触が終了し、ようやく、まほらばはラブコメとして真価を問われる段階になってきたように感じます。
ラブコメ・恋愛モノにおいて、わたしは作品が良作か駄作かハッキリ分かれる部分は告白が成功した後にこそあると思っています。正直ね、告白して成功するまでは読者は全員主人公に感情移入しているから、ほとんどの作品はめちゃくちゃ盛り上がるんです。というか、告白シーンで盛り上がれない作品はとんでもない駄作か、あるいは特殊な例だと思っています。
それで、告白後、どうなるかが問題になるというのは、作品のドラマツゥルギー最高潮(めちゃくちゃ盛り上がるシーンでのエネルギー)が既に過ぎてしまっているからなんです。今後その作品においてそれ以上盛り上がることはめったな事じゃありません。ただし、
・それ(ドラマツゥルギー最高潮)を恒常的に維持する
・最高潮に近いエネルギーを再生産する
というのは可能だと思います。
まほらばは後述しますが、あきらかに前者の方です。しかも優れた仕組みによってそれを維持しているというかなり特殊な。後者についてはほとんどの作品がそう。もう一度、物語に『穴』(二人の間に起こる何かの問題、例えばケンカとか)を作り出して、そこから這い上がることで更に結ばれた二人の愛情は強くなる、というタイプ。穴にはまって這い上がらずにそのまま穴を掘り続け違う穴から這い上がるというような変則的な手法なども時たま見られますけどね(笑)
さて、先ほど、まほらばは前者だ(それ(最高潮エネルギー)を恒常的に維持する)と書きましたが、ソレについて詳しく書きましょうか。まほらばが「まほらば」らしい理由は「青葉梢の多重人格」にあるとは言いましたよね?エネルギーが持続できるのはそれがあるからなんです。
普通の恋愛漫画ではヒロインと主人公は一対一でしかくっつくことは有り得なく(例外は勿論あり)それゆえに物語が最高に盛り上がるシーンは一つしか作れません。だって他の人ともイチャイチャしていたら浮気じゃないですか(笑)なかなかソレは書けませんよね。
まほらばの場合、青葉梢という"人格"があくまでメインヒロインだから、物語が一番盛り上がるのは8巻における白鳥の告白シーンですよね。ふつうのラブコメではここで終了なんですが、まほらばで重要なのはそこから別人格に交代させることで頂点のエネルギー状態をずっと維持していることにあります。ヒロインの多重人格を利用して、告白→成功というラブコメでの最高の盛り上がりを複数、自然に発生させたという手法はすごく面白いと思います。
しかも、性格は違うけど、全て"同じ人間だから"という事で複数人と付き合っている。そんな本来ありえない状況に違和感を持たせないようにしている。普通の人間だったら不倫や浮気で片付けられて、ゼッタイに有り得ません。
だから実は白鳥は不倫野郎なわけですよ(笑)青葉梢、赤坂早紀その他がそれぞれ実在する別の人間とするならね。でも全員同じ人間なんです。だから全員と付き合ってもオッケーという訳。
多重人格の話題も出てきたところで、現実世界(私達の生きる世界)での青葉梢の"病"
「解離性同一性障害」というものに触れてみましょう。
先に結論を言っておくと、まほらばはギャルゲーです。
多重人格という病をいくつか都合よく直すことで、構造がかなりそっくりになっています。多重人格の話にもどります。
多重人格とは実際に確認されている病ですが、
大体まとめると
「基本人格」と呼ばれる本来生まれたとき持っていた人格(=青葉梢)がまず有り、ある時にその体を支配している人格を「主人格」と呼びます。例えば赤坂早紀が体を支配している時は主人格は赤坂早紀なワケです。ここからが重要。
・基本人格は他人格に支配されている時の記憶が無い。
・基本人格以外の他人格は基本人格やその他の他人格の行動は第三の視点として認知している。ただし干渉はできない。
これは現実での話。
さて、まほらばでは
基本人格も他人格も体を支配しているとき以外は勝手に記憶を補填している。そして全ての人格が他人格の存在を把握していない。
これは「まほらば」だけの話。
つまり、
現実では視点が絡み合う複雑な現象だが、まほらばでは全ての人格が平行して存在している。人格のパラレルワールドともいえそうな状態。
ということ。
簡単に言い直しますと、
現実(わたし達のいるトコ)では他の人格は基本の人格を「知り合い」だと思っているけど、「まほらば」ではまったくの他人なんです。
大したことじゃないじゃんと思うことなかれ!
例え話をします。
現実:
Aさん(♂)はBさん(♀)が好きです。AさんはBさんに告白しました。
AさんとBさんは付き合うことになりました。その後、AさんはBさんと付き合っているのにも関わらず、Bさんの知り合いのCさんに告白しました。Cさんは浮気だと分かっているので付き合えません。
まほらば:
Aさん(♂)はBさん(♀)が好きです。AさんはBさんに告白しました。
AさんとBさんは付き合うことになりました。その後、AさんはBさんとはまったく無関係のDさんに告白しました。DさんはBさんのことを全然知らないので浮気だと分かりません。ですからAさんとDさんは付き合うことになりました。
お分かりいただけたでしょうか?(笑)
言うまでもなく、Aさん=白鳥。Bさん=青葉梢。Cさん=現実だった場合の他の人格達。Dさん=「まほらば」だった場合の他の人格達。
つまり、「本当の現実にある多重人格」だったら「まほらば」はゼッタイにできないお話なんです。
この仕組みが明らかになったのは実は11巻になってからなんです。
11巻では全ての人格が主人格でないときに記憶の補填をしていることが明らかになりました。だから青葉梢のなかではいくつもの世界(人格)が平行して存在しているんです。
青葉梢の人格が変わると、文字通り世界が変化しているんですよ。
人格変化がスイッチとなって、いくつものパラレルワールドを私たち読者は経験している。一つの直線的な物語の時間変化の中で平行している世界を行き来しているわけだ。
とすれば、選択肢によって別ヒロインを攻略できるというギャルゲーと実は近い構造をもっていることに気付きます。違いは時間が直線に進んでいるか(一回だけのプレイか)、一旦巻き戻っているか(もういちど最初からプレイするか)の違いだけなんです。
だからまほらばはギャルゲーなのだ。
青葉梢内に存在するヒロイン達を攻略するギャルゲー。これがまほらばに見る一番大きな構造の特殊性なんです。だからまほらばを読んで楽しめた人はきっとギャルゲーも難なく楽しめるはずだと思いますよ。
ところで、どうしてこんなにギャルゲーと似た仕組みなのか?
それは、もともと多重人格とギャルゲーは似た構造を持っているからなんです。ただし「現実にある多重人格」の方とですが。
詳しく解説してみます。(ちょっと難しくなります)
ギャルゲーでは選択肢によっていくつものヒロインとの違った物語を体験できますよね?ゲーム内での登場人物(主人公)は物語によってAさんを好きになったりBさんを好きになったりしますよね。だから物語ごとによって主人公はそれぞれ別人なんです。でもプレイヤーはそれを客観的に全て見ていますよね?そして、
プレイヤーは主人公に感情移入するから、物語のたびに違う人格になっているんですよ。
だからギャルゲーは多重人格的なんです。
現実にある多重人格という病は基本人格以外は主人格の行動を眺められると、既に言いましたよね。似ているんですよ。
ただし、それでは一つの物語じゃあ一つの物語しか体験できないじゃないですか。
だから、既に一度述べましたが、
一つの物語で複数の物語を体験するにはどうしたらいいの???
・・・という時に「まほらば」的な多重人格はとても都合が良いんです。理由は先述しましたよね。
もちろんまほらばがソレのみで構成されているわけではないので、他にも言及します。
まほらばのテーマは
「友人達と過ごす時間の無限回廊とそこからの脱却」だ。
と、小難しく言ってみる(笑)
簡単に言えば「みんなとずっと仲良くいたいけど、そうもいかないよね」ということ。
作中に何度もこのテーマは登場します。
一見、「輪廻する幸せな時間」がテーマのように見えて実は違う。
例えば、8巻での白鳥の告白シーンの直前のメインヒロイン青葉梢の発言を取り上げてみると、
「怯えているんです。・・・一緒にいるのが幸せなほど・・・好きになればなるほど・・・いつかやってくる別れの日に・・・」
という言葉があります。
別れという穏やかで優しい日常世界からの脱出が恐ろしい、という内容。彼女は現実を見つめているんですよ。普通の漫画ならば、この青葉梢の発言は「みんなと一緒にいることが楽しいんです。ずっと一緒に大好きな人たちといましょうね。」という発言になるところを、まほらばは否定しているんです。
こういったずっと楽しい時間がつづく幻想を描いた漫画の代表は「ラブひな」だったけど、まほらばは設定などいくつか影響を受けつつも、この輪廻する幸せからの脱出を描こうとしている点で大きく差別化されている。
普通の漫画はこんなこと(梢の発言)話題にすら出しません。
それはどうしてか?
だって物語の中くらいは幸せな感覚に浸りたいじゃないか!!!!
っていうことだからです(笑)
現実できっつい思いをして生活しているのに、なんで物語の中までこんな思いをしなきゃいけないんだ!っていうことなんですよ。そうですよね。僕もわかります(笑)
でもそれは読者の成長には繋がらないんですよ。
メタ(本質的)な視点でみると、「永遠に続く幸せな時間」というのは読者の物語の脱出につながらなく、つまり"作品の出口が無い"ことになるんです。読者はいつまでも物語の余韻に浸り、物語内では日常が続いているのだから、読者もその作品が続くという幻想を抱き、いつまでも作品から抜け出せない。
ようするに、現実逃避しちゃうわけね(笑)
だから、作品としてはその現象を防ぐ作品の出口があったほうが望ましいと僕は思うんです。「ラブひな」にはその出口が無かったけど、「まほらば」にはその出口が存在しているんです。(というかこれから間違いなくできる)
積極的に作品からの脱出を促しているのですよ。これは物語でのキャラクターの成長を描くと同時に、読者の成長にもつながります。個人的にもこういった出口が存在している作品はとても好き。最近ではエロゲーだけどFate/hollow ataraxiaが出口を巧く設定している作品でした。
もちろん、その「永遠に続く幸福な時間」が悪いと言っている訳では決してなく、敢えてそれを狙っていたのならソレはそれですごいことなんです。そういった需要があるのも確かですし。
まほらばはようやく11巻まで辿りつきましたが、ついにその出口が姿を見せ始めました。桃乃恵が海外へ結婚して移ること。ですね。
明らかに「永遠に続く幸福な時間」の否定ですよね。
否定しなければ絶対に引っ越す訳が無いんです。だって仲の良い友達が転向したら悲しいじゃないですか(笑)
また、脇役の女装白鳥に恋する彼(エロール)についても同じです。白鳥にフラれ(笑)みっちゃんとくっつきます。彼が女装白鳥に恋した時点でこの結果は見えていたんです。このエピソードは彼にとっての成長物語であると同時に、変化の肯定でもあります。
このように、まほらばは一見「永遠の続く幸福な時間」モノという"皮を被っているが"実はその日常からの脱却、変化を肯定する物語なんですよ。
さて、ここまで展開させておいて、
そもそもの問題提起をしてみましょう。
「成長する事ってのは正しいのですか?」
もちろん私は肯定派です。
社会的観念から。
最近の学生でも何でも、若者の品質低下は現在の就職事情を見ても分かりますよね。それは飢えたことの無い飽食の時代に生まれたからなんです。毎日の不足無い生活が当然になっていますよね。だから、今の若者には向上心・ハングリーさはどう考えても、大戦直後の日本人と比べると欠けているんです。
まぁ、もちろん私もまだ若いんですけどね。
でも野心に溢れている自負はあるかな(爆)
とにかく、その向上心の欠如が引き金となって引きこもりやら、ニートの増加を招いているのは想像に難くないです。そこに向上心を削ぐというよりも、現在に留まることを助長する「永遠の幸せな時間」の物語はやっぱり「常識的に」よろしくない。
ただ、これもあくまで「常識」にしか過ぎないのですが。
それこそ善悪二元論ですよ。まさに。
まとめると
・「常識」では「永遠の幸せな時間」はよろしくない
・でも所詮常識だから善悪の彼岸を見ると、そんなことは決められない。
って所でしょうか。
ってあれ?肯定してないぞ!私!(笑)
常識なんてものは人間の持つ曖昧なものなだけあって、いくらでも"ゆらぐ"んですよ。例えば、「この幻想(多重人格平行状態)を実現する仕組み」が出来たらきっと常識は変わるでしょうしね。
「成長は肯定されるべきか?」の話題をひっぱりつつ、作者「小島あきら」の話です。
こういった物語構成や、散らばるギャグのセンスを見ていると、多分虚無主義者、ニヒリストなんじゃなかろうか?と感じます。どこか現実的といいますか。ならリアリストか。
ギャグも繰り返しを多用して笑いを取っています。
笑いが何かを卑下することで発生する点を考えると、何度と無く繰り返すことを「そんなもん続かねーんだよ、ケッ」と言っているような気さえします(笑)ギャグ一つ取っても繰り返す日常を否定しているというわけ。
どこか、「どーせ無駄なんだよ・・・。」とでも言いたげな冷めた視点なんです。
そんなイメージを持ちませんか?(笑)
だから「永遠に続く幸せな時間」の否定の件も同様で、
おそらく小島あきらは「そんな都合のいい話あるわけねーだろ!」って考えているように感じます。でなきゃきっとこんな話は書けない。
でも、「まほらば」が「永遠に続く幸せな時間」に"見せかけている"所を見ると、現実逃避したいとは考えているようです。
つまり、作者小島あきらの姿とは
「夢見がちなリアリスト」
これで間違いないはずです。
◆最後に
本当の最後に主人公、白鳥隆士の話。
彼はヒロイン青葉梢の多重人格についてどう考えているのか。
ギャルゲー状態の彼はこの状態をどう思っているのか?
それはやはり、7巻でのこのセリフに集約されています。
「早紀ちゃんも、魚子ちゃんも、棗ちゃんも、千百合ちゃんも…犠牲になる必要なんてないよ…いや…むしろ犠牲になってしまったらだめなんだ。だって早紀ちゃん達だって梢ちゃんの一部なんだから」
さて、これは明らかにギャルゲー状態の肯定です。
あんだけ否定しておいて(言葉には出していないけど)まったくワケが分からない。
解決策の糸口がまったく想像つかないのですよ。
いままでの書評は11巻までの内容が元になっていて、完結した物語を評価したわけではないんです。このセリフの指し示す未来如何では評価は二転三転しかねません。ぶっちゃけ、もしかすると作者も収集つかなくなっているだけかもしれませんが・・・。
それでも、今後のまほらばの終局は要注目です!
今回、書ききれなかったこと
・なぜ小島あきらは多重人格を採用してギャルゲー的な作品に仕立てたのか?
・成長する事は正しいの?正しくないの?
とか沢山あります。
しかも完結していないし、冒頭で触れたように、これから真価が問われるので、評価はまだ出来ないんですよ。完結したときは勿論。アイデアが浮かび次第続きは書いてみたいと思います。


